2015年4月1日水曜日

人間は、地球上で起きているあらゆる災害を乗り越えられる[メッセージ修正版13]

地球上で起きている様々な事象は、それが自然災害であれ、人災であれ、すべて地球上で完結できるようになっています。
ですが、今の地球を観察する限りでは、完結からはほど遠い状態であるように見えます。それはなぜかといえば、地球の管理を託されている人間達がまだ成長途上にあるために、諸問題に対して適切な対処法を知らない事が原因なのです。
人類が地球上に誕生してから現在に至るまでの間に、人間達は様々な事象を目の当たりにし、多くの経験を積んで学びを得てきました。
それらの経験に基づいた知識は、皆様がより快適に暮らすために役立っていることでしょう。
長い年月を経て多くの文化が誕生し、そのたびにより優れた概念や技術が確立され、更なる進歩を遂げて来ました。
それらの積み重ねが今の世界であり、このような動きはこれから先も続いてゆくことでしょう。

それでも、人間達はまだ充分に経験を積んだとはいえず、これまでに経験した事柄は人類が地球上で経験する必要がある事柄のうちの一部に過ぎません。
人類はこれから先も数々の困難に直面し、それらの困難に真正面から向き合い、一つずつ問題を解決してゆかなければなりません。
それらの積み重ねが進歩に繋がり、未来への可能性を切り開き、不可能を可能へと導くことになるのです。

過去においては気にしなかったような事柄でも、多くの経験を積み、過去よりも理解を深めた結果、現代においては当たり前の常識として認識されている事柄なども多く存在しております。
実際に体験する事で、善悪の認識にも大きな変化が伴うものです。
過去においては当たり前に行われていた行為が、現代においては犯罪行為として扱われているという事例も数多く存在しております。
今までは理解できなかった事柄を理解するという事は、時として苦痛を伴う場合もあることでしょう。
ですが、それらの苦痛を乗り越え、今を生き抜く覚悟を決めなければ、未来へと歩みを進めることは出来ません。
過去に拘り、目の前にある現実を無視するという事は、死にも等しい行為であり、その様な者たちには過去と共に滅ぶ道しか残されておりません。
例え今は苦しくとも、更なる高みを目指して前進し続けるのか、それとも、現実の苦しみからは目を背けて、過去に囚われて朽ち果ててしまうのかは、皆様方の選択次第となります。

充分に理解出来ていないものを、最初から完璧にこなす事など誰にも出来るものではありません。
何か不具合が生じてから初めて世間に注目され、多くの人々が関心を持ち、研究の対象とする事で徐々に対象への理解が深まってゆくのが一般的でしょう。
ある物事に対して興味を持ち、実践してみるという行動は人類を大きく進歩させる事になるのですが、好ましいと知っているもの以外の対象へ理解を深めるためには、やはりその動機となるきっかけが必要となるため、充分に理解が深まるまでに、どうしても長い時間がかかってしまうものです。
失敗を何度も繰り返しながら徐々に理解を深め、やがて完成される時を目指しながら日常を生きる経験は、人類のためにはとても重要な事柄なのです。
失敗をして初めて理解できる事柄が地球上には沢山存在しているという事を、よく覚えておきましょう。
知らないからこそ、人間達はこの地球上で学んでいるのです。

冒頭でお話ししたように、今の地球上を観察する限りでは、一見して物事が完結できているようには見えません。
なぜなら、一人の人間の寿命よりも長い時間を用いて物事が進行しているからなのです。
一人の人間の寿命は、長生きしたとしても百年程度と考えますと、その間にある事象について完成されるまで見届けることが出来るものは限られてきます。
ほとんどの事柄に関しては、その成り行きを見届ける前に寿命が尽きてしまうことでしょう。
人間が生涯の間に完成まで見届けることが出来るものは、人間が理解している事柄に限定されており、一つの仕組みとして人間社会で完成されている事柄についてのみとなります。
理解が中途半端なものに関しては、制定された仕組みも中途半端であるために不具合が生じやすく、何度も失敗を繰り返しながら徐々に改善されてゆくことになります。
ですから、その行き着く先を見届けることができるのは、仕組みを制定した世代よりも何世代も先の子孫達ということになります。
理解できていない物事は、完結されるまでに多くの時間を費やしてしまうため、物事が地球上で完結しているように感じられないのです。
こればかりは焦ったところでどうにもなりませんから、経験を通じて少しずつ改善してゆくより他に方法はありません。
人類に向上心がある限り、時代を経るごとに徐々に進歩してゆきますから、例えすぐに実現することはできなくても、現時点で可能な事柄を着実に実現してゆくことに努めましょう。
人類の物事への理解の度合いが深まることで、事象が発生してから完結するまでの時間が短縮されてゆきます。
過去においては二度、三度と転生を繰り返さなければ事象について結果を観察することが不可能であったものが、将来的には一度の人生を経験するだけで事象の発生から結果までを観察することが可能になるため、地球上での学びの時間が短縮される事になります。
人類はこうして一つずつ経験に学び、一度の人生でより多くの事象の行く末を観察できるような環境を整えることが一つの目標となります。

このような現象は、人類が社会秩序を維持するために制定した仕組みに関して、より顕著に表れるものですが、自然環境との関わりという観点においても、人間の自然との接し方によっては大きな影響を与えることになります。
自然の摂理というものは、いつの時代も秩序正しく機能しており、狂いが生じることはありません。
ですが、人間の選択次第では、自然の摂理に則った結果が好ましいものとなる場合もあれば、悲惨な結果を招く場合もあります。
これは、人間が自然の摂理を充分に理解出来ていない事により生じる現象ですから、何度も失敗の経験を繰り返す中から一つずつ学び取り、自然の摂理に対する理解を深める以外に方法はありません。
その為に重要になってくるのが科学の進歩であり、より安定した技術が確立されてゆくことによって、自然の摂理の恩恵を受けやすい環境が整うことになるのです。
科学の進歩は人間が自然の摂理を理解する上では必要不可欠な要素ですから、科学の発展を妨害し遠ざけることは人類の成長の拒絶に繋がる行為なのです。
理解が十分ではないものに関して、危険だからと言って無闇に遠ざけていても、より理解を深める機会を得ることが出来ないために何一つ進歩することが出来ませんが、それとは逆に、利用価値がありそうだからといって無闇に突き進んでも、理解が追いついていない物事を制御することは難しいために大きな被害を出す結果となってしまいます。
科学は万能ではありませんから、常に間違いが起きる危険性を孕んでいるという事も忘れてはなりません。
科学が発展するためにはある程度の失敗は付きものではありますが、理解が充分ではないものに関しては、慎重に事を運ぶ必要があるのです。

さて、ここで勘違いしないでいただきたいのは、人間という存在も自然の摂理の中にある存在であり、摂理の外側に存在しているわけではないのだということなのです。
当然のことながら、自然の摂理の中の存在である人間が生み出した科学技術も、自然の摂理の中に位置するものであり、当然自然の摂理に基づいて発達しているものなのです。
ただ、自然の摂理に対する理解が充分ではないために、原因に対する結果を想像することが難しいため、人間達の望む結果を導き出すのに苦労しているだけなのです。
自然の摂理自体には、善悪の概念は存在しておりません。
自然の摂理とは、世界を成り立たせている法則に則って、原因に従って結果へと導く仕組みのことであり、結果に対して善悪の判断を下しているのは人間達の都合によるところが大きいので、時代や立場の違いによって判断が大きく異なるものなのです。

人間達が地球上に産まれた目的は、地球上での経験を経て霊的に成長し、やがては神々の仲間入りをすることでありますから、人間達は出来るだけ多くの事柄に触れて経験を重ね、知識を智恵として活かせるようになる必要があります。
その為には、失敗を恐れるばかりでは進歩がありませんので、注意深くありながらも失敗にばかり囚われる事なく、新たな事柄に挑戦する意欲を持ち続ける必要があるでしょう。
何事に対しても知ろうとする努力を怠らず、充分に理解を深める前に拒絶するような事がないように心がけましょう。
判断を一時保留にするという決断も、場合によっては重要な意味を持つことになりますので、結論を急ぐ必要の無いものに関しては、時間をかけて充分に吟味する方が良いでしょう。
ある対象を受け入れる場合でも拒絶する場合でも、充分に理解を深めた上で、自分たちにとって必要なものであるのか、それとも不要なものであるのかを判断するのが望ましいでしょう。
自分達の選択の結果がどのようなものであったとしても、原因は自分達の選択である事を忘れてはなりません。
もし自分達の望む結果が得られなかったのであれば、それは選択する段階で間違いを犯していたということであり、理解が足りなかった事に対して反省する必要があるでしょう。
次回も同じ間違いを繰り返さないためには、理解が足りていなかった事柄に対して学ぶ必要があるでしょう。
自分自身の物事に対する理解の度合いが、結果に反映されるのだということをよく覚えておきましょう。

(2015年3月7日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【世間の問題には解決策がある(メッセージ22)】について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

また、上記記事にある「人間が地球上に生まれた目的」については、記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】で述べておりますので、未見の方は併せてご覧下さい。

Silvercord管理人 





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4 件のコメント:

  1. αの更新いつも楽しみにしています。

    本記事中に「自然の摂理自体には、善悪の概念は存在しておりません。」とありますが大霊の作られた因果の中でも最も初期の果に位置するであろう自然の摂理に善悪がなければ我々は何を拠り所に成長していけばいいのでしょうか。それとも因果が時間と共に複雑化して自然の摂理の下位に善悪という概念が生じたのでしょうか。

    言葉の定義の問題だけなのかもしれませんが、例えば正義というのは個人の価値観に過ぎず相対的でありそのベクトルは善にも悪にも変化しますが、善というのは絶対の基準であり、その行きつく先は∞(無限)でありその先に大霊がいるため、いくら善を追求しても善をマスターする事はできず、つまり大霊には決して到達できないものであり、それゆえに神様方は自分も常に修業中であると仰れれているのだと考えていました。

    おそらく表現方法が違うだけなのだと思いますが少し気になったので質問させていただきました。

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    1. かうべる様

      自然の摂理とは、例えば物理法則を含めた因果律を指しますが、物理法則に善悪はありません。
      そして善悪とは、人間に取って「都合が良い」状態なのか、「都合が悪い」状態であるかを分別する尺度です。
      これが特定の人間(例えば管理人)にとってのみ「都合が良い/悪い」場合は、善悪とは表現しませんが、その「都合が良い/悪い」という判断がより多くの人々の間で共有される場合に「善/悪」と表現します。

      上記の話を、人間の生活圏に隣接して活動する肉食動物に例えてみましょう。
      肉食動物は一般に、自分よりも小さな動物などの肉を食べて生活します。
      これ自体に善悪はなく、肉食動物が自分の命を繋ぐために必須の、自然の摂理に基づく行動です。
      ところが、この肉食動物が、人間が飼育している家畜を食い荒らした場合に、人間から見ると悪を為す存在、害獣と見なされて駆除の対象とされます。
      一方、この肉食動物が、人間の栽培した作物を食い荒らす小動物を食べる場合は、人間から見ると作物の被害を守る益獣と見なされて大切にされます。
      どちらも同じ肉食獣で、共に自分の命を繋ぐために小動物を食べる行為を行っているだけでも、その結果が人間に取って都合が良い場合は「益獣」として重宝され、都合が悪い場合は「害獣」として駆除されてしまいます。

      この様に、善悪とは人間の価値観に当て嵌まるか、もしくは食い違うかを分別する言葉です。
      そして人間の価値観とは、それこそ人によって様々に食い違う場合もあれば、時代と共に変化する価値観もあります。
      善・悪と単純に言っても、人によって、時代によって善悪の判断基準は変化するのです。
      絶対善・絶対悪なども存在しません。
      人間に宿る霊は皆成長途上であり、成長の程度に応じて価値観を変えてゆきますので、少なくとも人間では「絶対」と断言できる境地には辿り着けないのです。

      では、人間が更に成長した先に神の境涯があるのでしたら、神々に「善悪」はあるのでしょうか。
      ここで肉食動物の話に戻ると、神々が見ているのは「肉食動物は生きるために他の小動物を食べる」というところで、そこに善悪の判断は介在しません。
      そして、神々にとって唯一の「価値観」というか「目的意識」とは、この世界に存在する全ての霊を神々の境涯に辿り着ける様に成長を促すことです。
      今私たちが存在している世界は、神々の働きによってこの様に成りたっていて、自然の摂理は神々の働きによって維持されています。
      ですから、これから神々の境涯を目指す私たち、人間に宿る霊たちは、自然の摂理のあらゆる側面について熟知しなくてはなりません。
      あらゆる側面とは、現在の人間から見て善と言われる行為や現象もあれば、悪と言われる行為や現象も含みます。
      それらを分け隔てなく一通り体験する中から、この世界に存在するあらゆる物事に共通する法則性を見極め、その法則性を成りたたせている原理を理解しなくてはなりません。
      それこそが、今私たちが人間として様々な経験を積む中から学ぶことなのだと考えております。

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  2. ありがとうございます。

    >>より多くの人々の間で共有される場合に「善/悪」と表現します。

    私もこの部分にも善悪の真理が隠されているような気はしてました。ただ人間の善悪が天界にどれだけ通じるのかを知りたいわけでもないのです。

    例えば東京にいる人が大阪に向かう時、西に進むのが最短ですが東に進んでも地球を一周してくれば辿り着けない事はありません。でも信頼できるコンパスや地図があれば一番効率よく向かう事が出来ます。あるいは西に向かうのが最短であったとしても、違うルートから辿り着く意義の方が大切なのかもしれません。

    でもそれは目的地を分かっていればこそ言える話で、分かっていない人はどこにも辿り着けません。神様方はおそらく人間のそこにやきもきされているのだと思います。私の知りたい部分はそこにあります。(私が未熟なのは目をつぶって頂いて、)我々人類は目的を見誤ったりしてないのか。このまま進んでも神様方に迷惑を掛けないかが気になるのです。

    おそらく善悪関わらず様々な経験をしながら、この世界の法則を学びその練度が高くなるにつれ自ずと忌避したくなる行動や衝動に駆られる行動を洗練させることが我々や我々が認識し得る霊界の住人たちのテーマなのだと思います。

    やはりその先の事はそれだけの霊性を備えていなければ考えるだけ無駄なのでしょうか。お釈迦様の毒矢の話もありますし、あまり遠い事ばかり考えても仕方ないのかもしれないですね。仮にこちらで霊の最終目的地やそこに辿り着く為の最短ルートを示して貰っても、それを100%実践できる自信はないというのが正直なところなので、先の楽しみは先の楽しみとしておきます。

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    1. かうべる様

      神様から霊媒を通じて伝達される霊的知識や情報は、人間である霊媒が理解できる範囲内の内容に限定されます。
      仮に神様がそれ以上の情報を発信しようとしても、霊媒がその情報を理解できないので、「何かを言っているけれども、詳しいことはよく分からない」となってしまいます。
      既存の知識や情報、価値観では収まらない様な物事を受け取ることになりますので、望めば何でも受け取れる訳ではありません。
      その辺りは現代人にとっての限界ですので、人間が更に研鑽を積んで、神様が発信する情報をより深く理解できる様にならないと、神様は新たな知識や情報を人間に伝えられません。
      仮に霊媒が一人で研鑽を積んで、神様からより深い情報を受け取れる様になったとしても、今度は霊媒の周囲にいる人々が霊媒の話を理解できない状態になるでしょう。
      ということで、霊媒の話を聞く立場にある管理人やかうべる様、そして『銀の紐』などをご覧の皆様の理解が深まっていかないと、なかなかその先へ話を進める状況にはなりません。

      かうべる様のコメントにある例えで述べると、「今は東京にいて、大阪へ向かう」ことは何となくわかるけれども、大阪がどこにあるかはよく分かりません。
      大阪がどちらの方向にあるのか、大まかな見当はつきますけれども、距離がどの位あるのかもわかりません。
      地図やコンパスに当たるのが何であるのかもはっきりしないのが現在です。

      また、とある霊界の住人は「先のことを気にするよりは、自分自身の身の回りをよく観察しましょう。それが結果的には近道になります」と述べておりました。

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