2015年2月1日日曜日

子育てと霊的成長の関係について[メッセージ修正版12]

この世界の構造には何一つ無駄なものは無く、それぞれにきちんと意味があって成り立っております。
男性と女性の性別がある事もそうですし、男性と女性が結婚して家庭を築き、子供を産み育てることにもきちんと意味があるのです。
家庭という場所は、人間にとって、一番最初に集団生活を経験する場所となります。
子供たちは家族との交流を通じて、物事の価値観を少しずつ学んでゆきます。
基本的な価値観は家庭での経験を通じて培われますので、保護者が持ち合わせている価値観に大きく影響されることでしょう。
保護者が子供とどのように向き合い、接するのかによって、子供の人格形成に大きく影響してゆくのです。
もし仮に、保護者が大きく偏った価値観の持ち主であれば、子供はその偏った価値観を基準として成長することになってしまいます。
ある程度成長してくると、家族以外との人間関係も発生しますので、そこで他の価値観に触れる機会を得ることは出来ますが、一度その身に染みついてしまった価値観を修正するのはとても難しいものです。
余程衝撃的な経験でもしなければ、価値観を修正する必要性を感じることはまず無いと思います。
もし何か不具合が生じたとしても、相手に求めるばかりで、自分自身の考えを修正する必要性すら感じないかもしれません。
そうなれば、偏った価値観が親から子へと受け継がれ続けることになってしまいます。
酷い場合は、善悪の区別をつけられない、犯罪行為を平然と行うような人間を育ててしまうことにもなるのです。
一方では、善いと思って行ってきた教育でも、問題を引き起こす原因となってしまう場合もあります。
そう考えますと、子供を育てる保護者の責任は重大と言えるでしょう。

自分自身がどのような価値観を持つ人間であるのかによって、子供の人生に大きな影響を与えることになるのですから、まずは自分が成長しておくことが大切になってきます。
自分自身が充分に理解できている事柄でなければ、その内容を子供たちにきちんと伝えることが出来ないからです。
特に幼い間は、保護者以外の人間と接する機会が少ないため、基本的な物事を覚える上で手本にするのは保護者の言動がほとんどになります。
まだ物事の意味を理解できていないような赤子も、周囲の人間の行動は見ていますし、その言葉もきちんと聞いています。
側に赤子がいる時に、自分自身の行動は常に観察され、言葉を聞かれているという事を考慮に入れて接する必要があるのです。
その様な積み重ねが、赤子の人格を形成する上での材料にされてゆきます。
もちろん、赤子個人の持って生まれた性質というものもありますが、成長する過程で周囲の者たちの価値観が混合され、その子個人としての人格が形成されてゆくのです。
そういう意味では、子供は自分自身の鑑とも言えます。
自分自身と似通った考え方を持っていたり、同じようなものを好んだりすることも充分に考えられるのです。
悪い癖などを受け継いでいる場合もありますし、逆に善い部分を見習っている場合もあるのですから、側で暮らしているということは、それだけでも子供の成長に大きな影響があると言えるのです。
ですから、子供の行動を観察することによって、間接的にではありますが、自分自身を客観的に観察出来る機会を得ることになるでしょう。

子育ては昔から当たり前に行われてきた行為ですが、この当たり前の行動によって人間は霊的に大きく成長し、更に先へとステップアップすることが可能になります。
人材育成などの行為からも子育てに通じるような多くの事柄を学べますが、やはり子育ての経験からの方が学びやすいでしょう。
我が子という意識がある方が、育成対象への関心を強く保つ助けになります。
育成対象に対して関心を強く保ち続けることが出来れば、責任ある行動をとりやすくなります。
育成対象に関心を持ち続けられるか否かが責任感を保てるか否かにかかってきますので、親子という関係のほうが自然な形で学びを得やすいのです。

子供を育てるとは言いますが、実は子供との関わりを通じて霊的真理を学び取る機会を得ている状態ですので、自分自身の成長の助けになっているという事をよく覚えておきましょう。
自分自身の考えや行動が適切なものであれば、子供から返ってくる反応は予想通りのものとなるでしょうが、不適切な接し方をしている場合は予想通りにはなりません。
その場合は自分自身の認識に誤りがある場合もあれば、今まで触れたことも無かったために知らない事があるという場合もあり、何かが不足しているためにうまく噛み合わない状況になっていることに気づく必要があります。
物事がうまく運ばなかったり、周囲の人間との意思疎通がうまく行かずに関係がぎくしゃくするなどの場合は、必ず見落としがあるものです。
周囲との安定した関係を望むのであれば、その見落としが一体何であるのかを知る努力が必要です。
それらの過程を繰り返す事で、徐々に霊的な感覚が研ぎ澄まされてゆく事になるでしょう。
どれだけの経験を積み、どれだけの事柄に確信を持てるようになるのかというのはとても重要なことであり、霊的真理をより深く理解する助けになるのです。

子育ての経験からは、皆様がいずれ神として活動するようになった際に必要な事柄を学び取れますので、それらの経験が出来る環境にある方は、今与えられている貴重な機会を大切にして下さい。
決して頑なにならず、柔軟な心で周囲に接し、より広い視野を持てるように、多くの経験から学びを得られるように努めましょう。

(2015年1月28日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【子育ての重要性(メッセージ20)】について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

また、前回投稿した記事【男女の性別と役割分担[メッセージ修正版11]】と併せてご覧になることにより、家族関係を始めとした様々な人間関係にも応用できると思いますので、是非参考にされてはいかがでしょうか。

Silvercord管理人 





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5 件のコメント:

  1. 物質世界における人間(知的生命)の家族というのは愛(自分以外の者を理解する事)を学ぶのにとても易いステージだと思います。それをクリアーしたりクリアーするコツを掴むことができれば、自分対社会(友達、恋人、親の立場としての家族、地域、国、自分に危害を加えようとする者)といった複雑で難易度の高いステージもクリアできる(愛することができる)ようになるのではないかなと思います。それらをもクリアできればいよいよこの世を解脱し、自分対地球や自分対宇宙なんていうステージ構成の想像すらできない世界へ進んでいけるようになるのかな。

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    1. 匿名様

      愛と一口に言いましても、人間の愛と神様の愛が同じとは限らないようです。
      人間の知り得る知識には限りがありますし、人間の寿命にも限りがありますので、その限られた範囲内で様々な物事を考えて判断します。
      一方、神様は人間よりも遙かに多くの物事を理解し、かつ人間に宿る霊が何度も輪廻を繰り返す様な長期間を視野に入れて、その上でその時々に応じて適切な判断をします。
      ですから、人間の目には愛情深い行為と映っても、神様には愚かな行為と見える場合もあれば、逆に神様の愛情深い働きかけが、人間の目から見ると非道に映る場合もあるようです。
      この様な認識の食い違いは、私たちが暮らす世界の仕組みについて、人間と神様の知識に大きな差があり、また両者が持つ視野にも大きな差がある為に生じているようです。

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    2. ありがとうございます。
      「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」マタイ福音書5.45
      この前後を読むと我々もこの様にあるべきと説かれています。でもこの言葉に対し素直に納得できる人もいればできない人もいますし、実践できるかと言えばとても難しい事だと思います。私も分かっていても私の事を憎む人や、好きな人に危害を加える人を許せそうにありません。少なくともこの課題を楽にクリアできるようでなければ神様の愛を正しく理解する事はできないのでしょうね。あと何回転生すれば神様に会えるかな。

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    3. 匿名様

      「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」マタイによる福音書7.12
      一言でまとめると、この様な事なのだと思います。

      >私も分かっていても私の事を憎む人や、好きな人に危害を加える人を許せそうにありません。

      この様な経験をされている方は少なくないと思いますが、仮にその様な人を許したとしても、それで問題が解決するわけではありません。
      幾ら自分が相手の行いを許しても、そうなってしまった原因が取り除かれない限り、その相手は自分に対する憎しみを解かないでしょうし、自分の好きな人に付きまとい続けるでしょう。
      マタイによる福音書の5~7章辺りで述べているのは、イエスに従う群衆に対して「神の御心に適う行いをしなさい。そして悪い者に対しても、神の御心に適う行いを率先して見せることによって、相手が改心する様に働きかけなさい」と言うことなのだと思います。
      キリスト教は赦しの宗教などと言いますが、実際に聖書に綴られた言葉を辿ってゆくと、赦しの宗教という認識はちょっと違うのではないかと感じています。

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    4. 仰る通りだと思います。赦すというのはその対象自身を反省させる事あるいは成長させる事を含めての事だと思います。その手法が相手の為に祈る事であり刑罰を与える事なのかなとも思います。
      現代の法における刑罰の理念とは復讐の為ではなく、本人の反省を促すことの意味合いの方が大きいと思います。被害者の心も加害者の心も救ってやらねばならない。それを体系化したのが罪刑法定主義だと思います。
      しかし刑事問題(crime)の部分は法により解決できても、どうして犯罪を犯したのかという道徳や理性に対する罪(sin)の部分を裁くことができるのは本人しかいないのですよね。

      神はこの世を一定の法則に基づき造られました。物理現象というのは一番わかりやすい法則だと思いますが、神の法則の中には罪びとは自ら省みて向上の道を選ばざるを得ない機能というのも含まれていると思います。しかしその法則が適用される時間は無限であり、地上にいるうちに向上の道を進めるようになる者もいれば、死んで彷徨える魂となり未だその道しるべすら掴めない者もいると思います。こうなるともう祈ってあげるしか仕方ないですね。襟を正して生きるとは自分が地獄に落ちない為というより、仲間が地獄に落ちない為という意味合いの方が強いのかもしれないですね。

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