2015年7月14日火曜日

「同性婚」を霊的知識に照らして考える[質問と回答]

今回は、記事【男女の性別と役割分担[メッセージ修正版11]】のコメント欄にお寄せ下さった大葉様の質問に関連して、「同性婚」についての霊界の住人のコメントを紹介します。

近年は海外で同性婚を法的な権利として認めてゆく動きが強まっており、六月にアメリカ合衆国最高裁判所にて、「アメリカの全ての州において同性結婚を認める」旨の判決が下されたとの報道がありました。
また、主に欧州や南北米大陸の諸国で同性婚の法制化が進んでいるようです。
日本でも三月に東京渋谷区議会が、同性のカップルを結婚に相当する関係と認めて「パートナー」と証明する旨の条例を議決しました。

その様な現状を踏まえて、とある霊界の住人の方は「同性婚」をどのように見ているのでしょうか。
先に大葉様の質問を再掲してから、霊界の住人のコメントを紹介します。





■ 大葉様の質問

【質問】
はじめまして、こんにちは。
この記事が投稿されてかなり経ちますが、よろしくお願い致します。

同性婚についてです。
世界でも同性婚が認められている国が少しずつですが増えています。
賛否両論あり、日本でもこの頃よく取り上げられているため、よく耳にし、考えることが多くなりました。
自分なりの意見はまだしっかりとまとまっておりませんが、この問題は個人を尊重するという視点と、生物学上の「ヒト」としての二つの視点があるのではないかと思っています。
個人を尊重する上では必要なことだとも思いますが、子孫繁栄に関していうと子どもは産めないので自然の摂理から逸脱しているのかなとも思えます。けれど、同性同士愛し合った二人が結婚して子どもを養子縁組で立派に育てたという話も聞いたことがあるように、家庭ごと、その人たちの人となりによって結局は良くも悪くもなるのかとも思います。
しかし、この記事にも述べられているように男女の役割や霊的成長として考えるとどうなるのでしょうか。
「子孫を繁栄させる事が出来るシステム」の上ではどういうものになるのか疑問が湧きました。
同性婚が認められると結婚して家族となりますが、男女の役割はどう解釈されるのか…?
などと混乱しています。
これは彼らが背負っているどう乗り越えるかという試練、ひいては人類の一つの議題として考えて乗り越えていかねばならない試練なのでしょうか。





■ とある霊界の住人の回答

同性婚についてお尋ねのようですので、回答させていただきます。

地上界は何故、男性と女性が存在して成り立っているのかを考えたことはありますか?
そこにはきちんとした理由があり、無意味に存在しているわけではありません。
必要のない仕組みをわざわざ作る様な無駄はしません。
地上界では霊的な成長のために必要な環境が整えられておりますので、当然のことながら、男女の性別の違いも霊的な成長に大きく関わってきます。
男性として暮らすことで学べる事柄と、女性として暮らすことで学べる事柄は異なっておりますので、成長途上の霊達にとってはどちらの経験も等しく重要なものとなります。
もともと持ち合わせている性質や担うべき役割が違うので、男性と女性が共に暮らし、協力しながら安定した家庭を築くことは至難の業です。
それらの違いを踏まえた上で協力するからこそ、大きな学びが得られる要素が存在するのです。

男性は女性としての経験を積むことは出来ませんし、女性は男性としての経験を積むことは出来ません。
例え男女で役割を逆転したとしても、それは変わりません。
男性が女性のまねをすることは出来ても女性になることは出来ませんし、女性が男性のまねをすることは出来ても、男性になることは出来ません。
例え何を行っていても男性は男性ですし、女性もまた然りです。
なったつもりになることは出来ても、実際になれるわけではないのです。
これは曲げようのない事実です。
地上界は霊達が学ぶために存在し、霊的な成長を一番に考えて創造されておりますので、地上界が成り立っている仕組みも環境も、霊的に成長するためには必要不可欠な要素ということになります。

同性愛者は少数派ですが、地上界に存在しております。
現実に存在しているからには、そこにはやはり理由があるのですが、その理由は人間達が考えているほど生易しいものではありません。
同性愛というものは、霊的な成長という観点から見てあまり良い状態とは言えません。
霊的な成長はどちらかというと停滞気味の状態です。
同性同士と言うだけで、互いを理解しやすい環境が整います。
異性と違って、性別の違いから来る理解の難しさを経験することがありません。
同性同士の場合は互いに同様の経験をする事が可能なので、異性と交際するよりも理解が容易いのです。
他人であれば一歩引いたものの考え方が出来ますが、恋人や家族となった場合には深く関わることになりますので、理解が難しい相手である異性との交際は煩わしさを感じる場面の方が多いかもしれません。
ですが、その煩わしさこそが霊的成長に大きく寄与している要素ですので、そこを避けて同性を選ぶと言うことは、霊的な成長という意味では停滞気味になり易い環境となってしまうのです。
ですから、霊的な成長のために存在している地上界で、わざわざ霊的な成長を妨げる要因となる仕組みを必死になって作ろうとしているのが、現在の地上界の状況であると理解しております。
人間に宿っている霊達が霊的な成長を望まず、人間のままでいたいと考える割合が多ければ、同性愛に対する考えはより寛容になり、人類は徐々に衰退する事になるでしょう。
逆にもっと霊的に成長したいと考える霊達の割合の方が多ければ、今後強い反発が出ることになるでしょう。
一時的には同性愛に寛容になっても、衰退傾向が見られ出すと途端に反発心が芽生え、強く反発する者たちの声が大きくなってくるでしょうから、どちらにしても反発されることにはなるでしょう。
ただ、その時期が早いのか遅いのかの違いだけとなります。

さて、同性愛者が地上界に存在している理由は、自分たちの楽園を地上界に創るためではなく、周囲との違和感に苛まれながら生活する過程でなければ学べない霊的真理があるからなのです。
それらの真理を充分に理解出来ていれば、同性愛に違和感を覚えるものなのですが、彼らにはまだそれが何であるのか理解出来てはいないのです。
それはそれで一つの経験の機会なのですから、単純に社会から排除すれば良いというものではありません。
積極的に容認するような問題でもありませんが、迫害するような問題でもないということです。
彼らは彼らなりに、悩みながらも霊的に成長してゆきます。
ですが、彼らが当然の権利として公然と振る舞い、それが当たり前の社会にしてしまうことには問題があります。
霊達が地上界で本来学ぶべき霊的真理を、充分に学ぶのが難しい環境になってしまうからです。
同性愛者として地上界で経験して学べる事柄は、霊的真理のうちのごく一部に過ぎません。
しかも、そのごく一部の霊的真理を学ぶためには、少数派として違和感を覚えながらも暮らしてゆく経験が必要なのです。
異性との交際からは学べない代わりに、社会との軋轢から学びを得ることになるのです。
今のままでは彼らにはとても生きづらい環境かもしれませんが、霊的な成長のためには必要な環境なのです。
ですから、行動や言動が行き過ぎると必ず反発を招く事になりますし、反って今よりも居心地の悪い環境になってしまうことでしょう。

それらの悩みを持つ人々を政治活動の道具として利用するために煽ったり、当事者でもないのに無責任に賛同して煽っている人たちの行動や言動はあまり感心できたものではありません。
彼らはあまりにも強引に事を推し進めており、それらの行動の結果として強い反発が起こる可能性が考えられます。
彼らが無理な要求を強引に押し通して、社会に対して政治的な圧力をかけることで、今までは特に反発する理由も見当たらなかったので容認していた人たちも、正当な反発理由を持ってしまうことになります。
その結果として、同性愛者達の居場所自体を奪ってしまいかねません。
一度そうなってしまったら、周囲で煽っていた人たちは蜘蛛の子を散らす様に逃げ去ってしまうことでしょう。
後に残された同性愛者達がどうなってしまうのか、想像するのは容易い事です。
本当に彼らのことを思うのであれば、そっとしておいた方が良いでしょう。
政治的な活動に利用してはなりません。
そして、その政治的な活動に乗せられて無責任な判断をしませんように。
「少数派の意見にも耳を傾けて理解をしている自分は素晴らしい」と無意識に思って、そんな自分に酔っているような無責任な方々があまりにも多すぎます。
政治的な圧力をかけて事を荒立ててしまえば、それはもう個人的な問題ではなく、社会問題として考えられるようになってしまうということを考慮に入れる必要があるでしょう。
当然、個人的な問題として見ていた時は容認していたような人たちでも、社会問題化した時点で違和感を覚え、反発する可能性が考えられます。
その反発心に対して、十分な説明や議論を尽くさず、差別主義者とのレッテル貼りでも行おうものならば、反発心が増すばかりで、元々は溝のなかったところに大きな溝を掘り進めてゆくようなものです。
冷静に考えれば、あまり強引に事を推し進めれば、後には悲惨な結果が待っているという事が容易に想像できます。
繊細な問題なのですから、もっと慎重に扱う必要があるでしょうに、今のような強引なやり方では、同性愛者達を支援しているというよりは、彼らを晒し者にしているようにしか見えません。
矢面に立たされているのですから、もし何か問題が起きた時は、その責任を問われるのも同性愛者達ということになってしまいます。
人の弱みにつけ込むような人たちは、都合が良い時は調子の良いことをペラペラと語りますが、一度都合が悪くなってしまえば、まるで最初から無関係の者のような顔をして逃げだそうとすることでしょう。
その様な身勝手な振る舞いに、真剣に悩んでいる人たちを巻き込んでしまっても良いのでしょうか?
中にはそっとしておいて欲しいと考えている同性愛者達もいるのではありませんか?
もっと、慎重に扱った方が良い問題だと思いますが、もうここまで問題が大きくなってきてしまうと留めようがないかもしれません。
同性愛者達自身がもっと慎重に注意深くあるように努めなければ、思いもしなかったようなとても辛い結果が待ち受けているかもしれません。

(2015年7月14日)





記事の冒頭で述べたように、今回は過去記事のコメント欄にお寄せ下さった質問について、とある霊界の住人の回答を紹介しました。
今回取り上げたテーマについては、霊界の住人として特に述べておきたいことがあると感じたようです。
但し、基本的には、ご覧の皆様からお寄せ下さった質問には管理人から回答しておりますので、その点については改めてご了承願います。

別途、記事冒頭のリンク先にて、同性婚に対する管理人の意見を述べておりますので、興味をお持ちの方は併せてご覧下さい。

Silvercord管理人 





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また、コメントを投稿される際は、記事【『銀の紐を越えてα』の開設にあたって】に掲載中の『ご覧の皆様へのお願いと連絡事項』をご覧下さい。

2015年4月1日水曜日

人間は、地球上で起きているあらゆる災害を乗り越えられる[メッセージ修正版13]

地球上で起きている様々な事象は、それが自然災害であれ、人災であれ、すべて地球上で完結できるようになっています。
ですが、今の地球を観察する限りでは、完結からはほど遠い状態であるように見えます。それはなぜかといえば、地球の管理を託されている人間達がまだ成長途上にあるために、諸問題に対して適切な対処法を知らない事が原因なのです。
人類が地球上に誕生してから現在に至るまでの間に、人間達は様々な事象を目の当たりにし、多くの経験を積んで学びを得てきました。
それらの経験に基づいた知識は、皆様がより快適に暮らすために役立っていることでしょう。
長い年月を経て多くの文化が誕生し、そのたびにより優れた概念や技術が確立され、更なる進歩を遂げて来ました。
それらの積み重ねが今の世界であり、このような動きはこれから先も続いてゆくことでしょう。

それでも、人間達はまだ充分に経験を積んだとはいえず、これまでに経験した事柄は人類が地球上で経験する必要がある事柄のうちの一部に過ぎません。
人類はこれから先も数々の困難に直面し、それらの困難に真正面から向き合い、一つずつ問題を解決してゆかなければなりません。
それらの積み重ねが進歩に繋がり、未来への可能性を切り開き、不可能を可能へと導くことになるのです。

過去においては気にしなかったような事柄でも、多くの経験を積み、過去よりも理解を深めた結果、現代においては当たり前の常識として認識されている事柄なども多く存在しております。
実際に体験する事で、善悪の認識にも大きな変化が伴うものです。
過去においては当たり前に行われていた行為が、現代においては犯罪行為として扱われているという事例も数多く存在しております。
今までは理解できなかった事柄を理解するという事は、時として苦痛を伴う場合もあることでしょう。
ですが、それらの苦痛を乗り越え、今を生き抜く覚悟を決めなければ、未来へと歩みを進めることは出来ません。
過去に拘り、目の前にある現実を無視するという事は、死にも等しい行為であり、その様な者たちには過去と共に滅ぶ道しか残されておりません。
例え今は苦しくとも、更なる高みを目指して前進し続けるのか、それとも、現実の苦しみからは目を背けて、過去に囚われて朽ち果ててしまうのかは、皆様方の選択次第となります。

充分に理解出来ていないものを、最初から完璧にこなす事など誰にも出来るものではありません。
何か不具合が生じてから初めて世間に注目され、多くの人々が関心を持ち、研究の対象とする事で徐々に対象への理解が深まってゆくのが一般的でしょう。
ある物事に対して興味を持ち、実践してみるという行動は人類を大きく進歩させる事になるのですが、好ましいと知っているもの以外の対象へ理解を深めるためには、やはりその動機となるきっかけが必要となるため、充分に理解が深まるまでに、どうしても長い時間がかかってしまうものです。
失敗を何度も繰り返しながら徐々に理解を深め、やがて完成される時を目指しながら日常を生きる経験は、人類のためにはとても重要な事柄なのです。
失敗をして初めて理解できる事柄が地球上には沢山存在しているという事を、よく覚えておきましょう。
知らないからこそ、人間達はこの地球上で学んでいるのです。

冒頭でお話ししたように、今の地球上を観察する限りでは、一見して物事が完結できているようには見えません。
なぜなら、一人の人間の寿命よりも長い時間を用いて物事が進行しているからなのです。
一人の人間の寿命は、長生きしたとしても百年程度と考えますと、その間にある事象について完成されるまで見届けることが出来るものは限られてきます。
ほとんどの事柄に関しては、その成り行きを見届ける前に寿命が尽きてしまうことでしょう。
人間が生涯の間に完成まで見届けることが出来るものは、人間が理解している事柄に限定されており、一つの仕組みとして人間社会で完成されている事柄についてのみとなります。
理解が中途半端なものに関しては、制定された仕組みも中途半端であるために不具合が生じやすく、何度も失敗を繰り返しながら徐々に改善されてゆくことになります。
ですから、その行き着く先を見届けることができるのは、仕組みを制定した世代よりも何世代も先の子孫達ということになります。
理解できていない物事は、完結されるまでに多くの時間を費やしてしまうため、物事が地球上で完結しているように感じられないのです。
こればかりは焦ったところでどうにもなりませんから、経験を通じて少しずつ改善してゆくより他に方法はありません。
人類に向上心がある限り、時代を経るごとに徐々に進歩してゆきますから、例えすぐに実現することはできなくても、現時点で可能な事柄を着実に実現してゆくことに努めましょう。
人類の物事への理解の度合いが深まることで、事象が発生してから完結するまでの時間が短縮されてゆきます。
過去においては二度、三度と転生を繰り返さなければ事象について結果を観察することが不可能であったものが、将来的には一度の人生を経験するだけで事象の発生から結果までを観察することが可能になるため、地球上での学びの時間が短縮される事になります。
人類はこうして一つずつ経験に学び、一度の人生でより多くの事象の行く末を観察できるような環境を整えることが一つの目標となります。

このような現象は、人類が社会秩序を維持するために制定した仕組みに関して、より顕著に表れるものですが、自然環境との関わりという観点においても、人間の自然との接し方によっては大きな影響を与えることになります。
自然の摂理というものは、いつの時代も秩序正しく機能しており、狂いが生じることはありません。
ですが、人間の選択次第では、自然の摂理に則った結果が好ましいものとなる場合もあれば、悲惨な結果を招く場合もあります。
これは、人間が自然の摂理を充分に理解出来ていない事により生じる現象ですから、何度も失敗の経験を繰り返す中から一つずつ学び取り、自然の摂理に対する理解を深める以外に方法はありません。
その為に重要になってくるのが科学の進歩であり、より安定した技術が確立されてゆくことによって、自然の摂理の恩恵を受けやすい環境が整うことになるのです。
科学の進歩は人間が自然の摂理を理解する上では必要不可欠な要素ですから、科学の発展を妨害し遠ざけることは人類の成長の拒絶に繋がる行為なのです。
理解が十分ではないものに関して、危険だからと言って無闇に遠ざけていても、より理解を深める機会を得ることが出来ないために何一つ進歩することが出来ませんが、それとは逆に、利用価値がありそうだからといって無闇に突き進んでも、理解が追いついていない物事を制御することは難しいために大きな被害を出す結果となってしまいます。
科学は万能ではありませんから、常に間違いが起きる危険性を孕んでいるという事も忘れてはなりません。
科学が発展するためにはある程度の失敗は付きものではありますが、理解が充分ではないものに関しては、慎重に事を運ぶ必要があるのです。

さて、ここで勘違いしないでいただきたいのは、人間という存在も自然の摂理の中にある存在であり、摂理の外側に存在しているわけではないのだということなのです。
当然のことながら、自然の摂理の中の存在である人間が生み出した科学技術も、自然の摂理の中に位置するものであり、当然自然の摂理に基づいて発達しているものなのです。
ただ、自然の摂理に対する理解が充分ではないために、原因に対する結果を想像することが難しいため、人間達の望む結果を導き出すのに苦労しているだけなのです。
自然の摂理自体には、善悪の概念は存在しておりません。
自然の摂理とは、世界を成り立たせている法則に則って、原因に従って結果へと導く仕組みのことであり、結果に対して善悪の判断を下しているのは人間達の都合によるところが大きいので、時代や立場の違いによって判断が大きく異なるものなのです。

人間達が地球上に産まれた目的は、地球上での経験を経て霊的に成長し、やがては神々の仲間入りをすることでありますから、人間達は出来るだけ多くの事柄に触れて経験を重ね、知識を智恵として活かせるようになる必要があります。
その為には、失敗を恐れるばかりでは進歩がありませんので、注意深くありながらも失敗にばかり囚われる事なく、新たな事柄に挑戦する意欲を持ち続ける必要があるでしょう。
何事に対しても知ろうとする努力を怠らず、充分に理解を深める前に拒絶するような事がないように心がけましょう。
判断を一時保留にするという決断も、場合によっては重要な意味を持つことになりますので、結論を急ぐ必要の無いものに関しては、時間をかけて充分に吟味する方が良いでしょう。
ある対象を受け入れる場合でも拒絶する場合でも、充分に理解を深めた上で、自分たちにとって必要なものであるのか、それとも不要なものであるのかを判断するのが望ましいでしょう。
自分達の選択の結果がどのようなものであったとしても、原因は自分達の選択である事を忘れてはなりません。
もし自分達の望む結果が得られなかったのであれば、それは選択する段階で間違いを犯していたということであり、理解が足りなかった事に対して反省する必要があるでしょう。
次回も同じ間違いを繰り返さないためには、理解が足りていなかった事柄に対して学ぶ必要があるでしょう。
自分自身の物事に対する理解の度合いが、結果に反映されるのだということをよく覚えておきましょう。

(2015年3月7日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【世間の問題には解決策がある(メッセージ22)】について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

また、上記記事にある「人間が地球上に生まれた目的」については、記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】で述べておりますので、未見の方は併せてご覧下さい。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【『銀の紐を越えてα』の開設にあたって】に掲載中の『ご覧の皆様へのお願いと連絡事項』をご覧下さい。

2015年2月1日日曜日

子育てと霊的成長の関係について[メッセージ修正版12]

この世界の構造には何一つ無駄なものは無く、それぞれにきちんと意味があって成り立っております。
男性と女性の性別がある事もそうですし、男性と女性が結婚して家庭を築き、子供を産み育てることにもきちんと意味があるのです。
家庭という場所は、人間にとって、一番最初に集団生活を経験する場所となります。
子供たちは家族との交流を通じて、物事の価値観を少しずつ学んでゆきます。
基本的な価値観は家庭での経験を通じて培われますので、保護者が持ち合わせている価値観に大きく影響されることでしょう。
保護者が子供とどのように向き合い、接するのかによって、子供の人格形成に大きく影響してゆくのです。
もし仮に、保護者が大きく偏った価値観の持ち主であれば、子供はその偏った価値観を基準として成長することになってしまいます。
ある程度成長してくると、家族以外との人間関係も発生しますので、そこで他の価値観に触れる機会を得ることは出来ますが、一度その身に染みついてしまった価値観を修正するのはとても難しいものです。
余程衝撃的な経験でもしなければ、価値観を修正する必要性を感じることはまず無いと思います。
もし何か不具合が生じたとしても、相手に求めるばかりで、自分自身の考えを修正する必要性すら感じないかもしれません。
そうなれば、偏った価値観が親から子へと受け継がれ続けることになってしまいます。
酷い場合は、善悪の区別をつけられない、犯罪行為を平然と行うような人間を育ててしまうことにもなるのです。
一方では、善いと思って行ってきた教育でも、問題を引き起こす原因となってしまう場合もあります。
そう考えますと、子供を育てる保護者の責任は重大と言えるでしょう。

自分自身がどのような価値観を持つ人間であるのかによって、子供の人生に大きな影響を与えることになるのですから、まずは自分が成長しておくことが大切になってきます。
自分自身が充分に理解できている事柄でなければ、その内容を子供たちにきちんと伝えることが出来ないからです。
特に幼い間は、保護者以外の人間と接する機会が少ないため、基本的な物事を覚える上で手本にするのは保護者の言動がほとんどになります。
まだ物事の意味を理解できていないような赤子も、周囲の人間の行動は見ていますし、その言葉もきちんと聞いています。
側に赤子がいる時に、自分自身の行動は常に観察され、言葉を聞かれているという事を考慮に入れて接する必要があるのです。
その様な積み重ねが、赤子の人格を形成する上での材料にされてゆきます。
もちろん、赤子個人の持って生まれた性質というものもありますが、成長する過程で周囲の者たちの価値観が混合され、その子個人としての人格が形成されてゆくのです。
そういう意味では、子供は自分自身の鑑とも言えます。
自分自身と似通った考え方を持っていたり、同じようなものを好んだりすることも充分に考えられるのです。
悪い癖などを受け継いでいる場合もありますし、逆に善い部分を見習っている場合もあるのですから、側で暮らしているということは、それだけでも子供の成長に大きな影響があると言えるのです。
ですから、子供の行動を観察することによって、間接的にではありますが、自分自身を客観的に観察出来る機会を得ることになるでしょう。

子育ては昔から当たり前に行われてきた行為ですが、この当たり前の行動によって人間は霊的に大きく成長し、更に先へとステップアップすることが可能になります。
人材育成などの行為からも子育てに通じるような多くの事柄を学べますが、やはり子育ての経験からの方が学びやすいでしょう。
我が子という意識がある方が、育成対象への関心を強く保つ助けになります。
育成対象に対して関心を強く保ち続けることが出来れば、責任ある行動をとりやすくなります。
育成対象に関心を持ち続けられるか否かが責任感を保てるか否かにかかってきますので、親子という関係のほうが自然な形で学びを得やすいのです。

子供を育てるとは言いますが、実は子供との関わりを通じて霊的真理を学び取る機会を得ている状態ですので、自分自身の成長の助けになっているという事をよく覚えておきましょう。
自分自身の考えや行動が適切なものであれば、子供から返ってくる反応は予想通りのものとなるでしょうが、不適切な接し方をしている場合は予想通りにはなりません。
その場合は自分自身の認識に誤りがある場合もあれば、今まで触れたことも無かったために知らない事があるという場合もあり、何かが不足しているためにうまく噛み合わない状況になっていることに気づく必要があります。
物事がうまく運ばなかったり、周囲の人間との意思疎通がうまく行かずに関係がぎくしゃくするなどの場合は、必ず見落としがあるものです。
周囲との安定した関係を望むのであれば、その見落としが一体何であるのかを知る努力が必要です。
それらの過程を繰り返す事で、徐々に霊的な感覚が研ぎ澄まされてゆく事になるでしょう。
どれだけの経験を積み、どれだけの事柄に確信を持てるようになるのかというのはとても重要なことであり、霊的真理をより深く理解する助けになるのです。

子育ての経験からは、皆様がいずれ神として活動するようになった際に必要な事柄を学び取れますので、それらの経験が出来る環境にある方は、今与えられている貴重な機会を大切にして下さい。
決して頑なにならず、柔軟な心で周囲に接し、より広い視野を持てるように、多くの経験から学びを得られるように努めましょう。

(2015年1月28日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【子育ての重要性(メッセージ20)】について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

また、前回投稿した記事【男女の性別と役割分担[メッセージ修正版11]】と併せてご覧になることにより、家族関係を始めとした様々な人間関係にも応用できると思いますので、是非参考にされてはいかがでしょうか。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【『銀の紐を越えてα』の開設にあたって】に掲載中の『ご覧の皆様へのお願いと連絡事項』をご覧下さい。