2014年10月1日水曜日

物質に宿る経験がもたらすもの[メッセージ修正版09]

霊にとって物質に宿ることは、霊のままで過ごすよりも大きな制約を課せられることになるのですが、霊的成長という観点から見たときに、その課せられた制約というものには重要な役割があります。
霊が何かを決断するときには、意識している、意識していないに関わらず、常に霊的成長に繋がる選択をしているものです。
足りないと思うものを補給しようとしたり、疑問を解決しようとしたり、個々の存在によって様々な欲求を持ち、それらを満たすために選択をする事で、それぞれに適した学びのための環境が出来上がります。
霊にとって霊体であったときの記憶は、物質界で暮らすためには邪魔になってしまうので、物質に宿るとそれらの記憶を一時的に封じてしまいます。
霊としての過去の記憶を持ち合わせたまま物質界に存在することは、苦痛と混乱を招く原因となってしまうため、新たな学びを得ることが難しくなってしまうので、一時的に記憶を封印するシステムになっているのです。
もちろん、肉体から解放されればそれらの記憶も開放されるので、過去の記憶と新たに得た学びの記憶を全て考慮に入れた上で総括をすることが可能になります。
それらの作業を経て、霊は、次の目標を掲げて次のステップに移行するのか、それとも、もう一度同様の経験を通じてを学び直すのかを選択するのです。

霊の状態では思いや感情を隠すことが難しいと言われますが、それは、未熟であればあるほど感情に支配されやすく、周囲の霊にも分かりやすい形で表現されてしまうためです。
成熟してくると感情を制御できるようになるので、周囲から見ても分かり難い状態になります。
未熟な霊が成熟した霊の思いや感情を見抜くことは出来ませんが、成熟した霊からは未熟な霊の思いや感情は手に取るように分かってしまうことでしょう。
成熟した霊同士でも、未熟な霊同士でも、同様の思いや感情を抱いたことのあるものであれば見抜くことは可能です。
ある程度成熟した霊であれば、他者に思いや感情を見抜かれても成長の糧を得る機会と受け止めることも出来るのですが、未熟な霊にとっては耐えがたい苦痛となり、なるべくであれば隠したいと考えてしまいます。
その影響から、自分自身と考えの傾向が似ている存在の側にいることを好むので、成長する機会を得ることが難しくなってしまいます。
霊的成長という観点から考えると、自分とはなるべく違うタイプの存在と接して、多くの刺激を受けた方が良いのですが、それは未熟な霊にとっては苦痛となって萎縮してしまうのです。
いつまでも萎縮した状態では十分な経験を積むことが出来ないために、成熟に向かうことが難しくなってしまいます。
未熟な霊が安心して学びを得るには、思いや感情が簡単に伝わってしまうこと無く、自分で考えながら選択して表現できる環境が必要になります。
そこで、この地上界での経験が重要になってきます。
未熟な霊たちも、安心して学びに専念できるのです。
当人たちは学んでいるつもりは無いかもしれません。
ただ単純に、自分の欲望を満たしているだけという場合もあるでしょう。
容易に思いや感情が伝わることの無い環境では、未熟な霊たちも萎縮すること無く心のままに行動できるので、霊的真理を理解するためには地上界は最適な場所なのです。
心のままに行動するというのは、物事を理解する上ではとても重要なことです。
いつも遠慮してしまい、思う存分に考えを試してみるという経験が出来ない状態だと、心の中には思う存分に試せないという不満がたまり、いつまでも成長の糧になるような経験に到達できないのです。
とことんまで試してみて、その経験から学びを得ることが重要なのですから、霊たちの成長度合いに合わせて地上界が創られ、霊的真理の学舎として大きく貢献しているのです。

地上界は、自ら進んで表現しなければ周囲に思いや感情が伝わることは無いのですが、それが徒となり、周囲に知ってもらいたい思いや感情も、上手に表現しなければ思うように伝わる事はありません。
知られたくない思いや感情を隠せる代わりに、知ってもらいたい思いや感情もうまく伝わらない事で、霊たちは悩みます。
どうしたら自分の思いや感情を適切な形で表現できるのだろうと、頭を抱えて悩む経験をする事になります。
どうしたら周囲と通じ合えるのだろうと考えるようになるのです。
相手を知ろうと努力しなければ何も分かりませんし、自分を知ってもらう努力をしなければ何も伝わらないのです。
霊の状態であれば悩まなくても伝わっていたものですが、それを捨てる選択をしたために不都合が生じるようになってしまったのです。
そうして、物事には道理というものがあり、何でも自分の思い通りになるわけでは無いのだということを学ぶのです。

未熟な霊は自分にとって居心地の良い相手を選んで共に過ごすことを好みますが、地上界ではその様なわけには行きません。
何しろ、自らアピールしなければ、自分がどのような存在か知ってもらう術はありませんし、相手がアピールしてくれなければ、その人がどのような存在か確認することが出来ないのです。
人間の間は心を偽ることも容易になるので、きっと気が合うだろうと思っていても、実は全然合わなくて居心地の悪い思いをしたなどということもあるでしょう。
ですが、相手の思いや感情が容易には分からないという状態は、霊的成長を考えたときにとても役立っているのです。
なぜなら、自分とは全く異なる考えの持ち主たちと共に過ごすことに対して、苦痛を鈍くする効果があるからです。
ただ側にいると言うだけでは、霊の時ほどに強い拒絶反応は起きないのです。
知らなければ、そのまま知らないものとして過ごしてしまえるのです。
霊の状態であれば、側にいれば思いや感情が伝わってしまいますから、まず異なる考えの相手とは距離を置いて、自分から近づこうとはしません。
ところが、人間の状態では、どこに自分とは異なる考えの持ち主がいるのか、一見しただけでは判断できません。
相手に接してみるまで、よく分からないという状況になるのです。
もし仮に、相手が自分とは合わない存在であると分かったところで、暮らしている環境を簡単に変えてしまうことも出来ません。
結果として、異なる考えの持ち主たちに囲まれて、悩みながら生活することになるのです。
悩みながら、相手との関係を安定的に保つ方法を考えたり、あるいは距離を置く選択をするかもしれませんが、多くの刺激を受けながら日々過ごすことになるでしょう。
周囲から受ける刺激は、その全てが考えるための材料となり、学びの糧となります。
それらの経験を経ることで、霊界では学ぶ事が難しかった事柄を、この地上界で経験して学んでいるのです

(2014年8月20日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【物質に宿ることの重要性(メッセージ17)】について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

なお、霊的知識を学ぶ場所としての地上界の役割については、下記記事でも解説しておりますので、未読の方は併せてご覧下さい。
【霊の学舎としての物質界と因果律の作用(前編)[メッセージ修正版05.1]】

Silvercord管理人 





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3 件のコメント:

  1. とても興味深いお話をありがとうございます。
    私は、とある霊媒師の方に、先だって亡くなった自分の師匠と繋がってもらったところ、穏やかだった生前とはうってかわって感情をむき出しにして私を嫌っていたので、なかなかショックを受けていたのですが、こういうことだったのですね。この記事を読んですとんと腑に落ちました。

    >心のままに行動するというのは、物事を理解する上ではとても重要なことです。
    きっと彼は生前思いのままに行動できず、
    >いつも遠慮してしまい、思う存分に考えを試してみるという経験が出来ない状態だと、心の中には思う存分に試せないという不満がたまり、いつまでも成長の糧になるような経験に到達できない
    という状態で、未熟なまま死んでいったのかな、と思いました。

    個人的な話で申し訳ありませんが、この記事には随分と救われたのでコメントいたします。

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    1. うぬ様

      上記記事に救われたとのことですが、お寄せ頂いたコメントを拝見すると、このまま納得してしまうのは危険ではないかと思いましたので、一言申し上げます。
      こちらのコメントからは詳細な事情は伺えませんが、少なくとも以下の三つの可能性について考えて見た方が良いと思います。

      1.生前は穏やかだった師匠が、実はうぬ様を嫌っていたとのことですが、その霊媒師が「うぬ様の師匠の霊」と述べる相手の話は、うぬ様にとっても思い当たる節のある内容だったのでしょうか。
      もし、うぬ様が「師匠の霊」から嫌われている理由を聞いていて、その指摘がうぬ様ご自身にも「思い当たる節がある」のでしたら、『その霊媒師は確かに師匠の霊の仲介をしており、師匠の霊の話にも信憑性がある』と判断できます。

      2.うぬ様が霊媒師を通じて「師匠の霊」と名乗る相手の話を聞いた時に、うぬ様ご自身が「思い当たる節のない」内容であり、なおかつ相手の印象が「生前の師匠と異なる」のでしたら、その霊媒師と繋がった相手が『うぬ様の師匠とは別の霊である』可能性があります。
      基本的に、霊媒が霊と人間の仲介する場合、「~の霊」というのはその霊が自ら名乗っているだけで、実は目的の霊とは無関係の霊である場合も少なくありません。
      だからこそ霊媒には、対となる「さにわ」と呼ばれる役割を務める者が必須であり、さにわ役の者が霊媒を通じて相手の霊に様々な質問を投げかけて会話を交わすことにより、相手の「人となり」や話の内容の信憑性を計って行くのです。
      ですから、霊媒を通じて霊の話を伺う際に気をつけたいのは、まず「この霊は本当に目的の相手なのだろうか?」と疑ってかかり、会話を交わしながら「相手が本当に目的の霊である」との証拠を求める姿勢です。
      「生前の師匠なら、こう考えた(答えた)はず」と、うぬ様が確認できそうな話題を振って、その反応を見て相手の正体を探るのです。
      尤も、会話の中に霊媒の知識を越える内容が含まれていると、幾ら相手の霊が情報発信をしていても、仲介する霊媒が情報を適切に受信し、翻訳できない場合があります。
      ですから、特に仲介を依頼する霊媒の人となりをよく知っているのでもなければ、無難で日常的な話題を通じて、霊媒が仲介する相手の人となりを推察することになるでしょう。

      3.もう一つの可能性として考慮しておきたいのは、そもそも師匠の霊との仲介を頼んだ霊媒師自体が、実は霊媒能力を持っていない場合です。
      この場合は霊媒ですらない詐欺師なのですから、その話は全て嘘偽りであり、他人の不安心理に付け込む卑劣な行為です。
      更に、霊媒師を名乗る方の中には、金品など何らかの対価を求めるビジネスとして活動する場合もあります。
      ここではあくまでも仮の話と強調しますが、何らかの対価を得て、霊媒師を騙って詐欺行為を働く犯罪者である可能性も捨てきれません。
      うぬ様が霊媒師に依頼をした時に、その霊媒師の姿勢がどうであったかを精査する事によって、詐欺師であるか否かを見極める助けとなるでしょう。
      霊媒としての役割や能力について充分に理解を深めている方でしたら、「通信の相手が~(例えば、うぬ様の師匠)というのは、あくまで自称であって、最終的に相手が~であるかどうかを見極めるのは、霊媒を通じて霊と対話をする依頼者自身に委ねられる」という点について、何らかの説明があるはずです。
      ですから、通信の相手の身元を確認する為に、依頼者から質問を受けることを妨げないでしょうし、ましてや依頼者からの質問は一切受け付けずに、霊媒の言い分を一方的に鵜呑みにする様強要することはないでしょう。
      もし、霊媒師を名乗る者がその様な姿勢を示した場合は、霊媒を騙る詐欺師である可能性があります。

      お寄せ頂いたコメントからは、上記のいずれのケースに該当するのか判断は出来ませんが、霊の世界の出来事は、人間が直接見て触って確認できる物事ではありませんので、端から完全に否定するのではなくとも、最初は疑ってかかるくらいの慎重な姿勢でちょうど良いと思います。

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  2. ご心配ありがとうございます。1.です。
    師匠と繋がった時、「私のこういうところが嫌いだ」と言われたのですが、それはどれも思い当たる節のある出来事でした。あと、時々とても師匠そっくりの口調で霊媒師さんがおっしゃって、それで本人だなと確信しました。
    私も最初は疑っていましたが、何度もお会いしているうちに疑う必要性を感じなくなったので、信じております。

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