2014年6月1日日曜日

霊の学舎としての物質界と因果律の作用(後編)[メッセージ修正版05.2]

今回は、前回のお話を踏まえて、埋め合わせの法則というものを改めて考えてみることにしましょう。
埋め合わせの法則という表現よりは、因果律と表現した方が適切かもしれません。
自分の行いに等しい結果が訪れるのが、埋め合わせの法則(因果律)です。
正しき行いには霊的成長があり、悪しき行いには霊的成長の停滞があります。

一見正しい行いに思えても、実際には周囲へ悪影響を及ぼしている場合は、思い通りの結果には至らず、苦しい日々を送ることになるでしょう。
なぜそのような結果を招いてしまったのかを正確に理解し、適切な対応ができるまで、苦しい状況が改善されることはありません。
行動する動機となった心がけがどんなに正しいものであったとしても、問題に対する理解不足による見落としや、経験不足による甘い見通しにより、物事がうまく運ばないということは、経験済みの方も大勢おられることでしょう。
これらの問題を解決するために必要なのは、問題の核心部分を理解しようとする心構えです。
問題の核心部分を理解するためには、自分の失敗を客観的に評価できる必要があります。
これはとても難しい作業だと思います。
抵抗を感じる方も大勢おられることでしょう。
自分自身の至らない部分に注目し、修正を図るためには、心の葛藤が生じるかもしれません。
認めたくない気持ちが膨らんで、どうにもならないかもしれません。
それでも、認めなければ前に進むことができないのであれば、思い切って覚悟を決めた方が、気持ちもずいぶんと楽になるものです。
問題を解決したいけれど、失敗を認めたくない気持ちに捕らわれているという二重苦を抱えるよりは、どんなに楽なことでしょう。
何事も、覚悟を決める前が一番苦しいものなのです。
一度覚悟を決めてしまえば、後は前進あるのみです。
全てを一度に理解しようとしても無理ですから、問題が発生したらその都度見直しを図り、改善を試みるのが良いでしょう。
それらの作業を繰り返すうちに、問題の全貌を把握することができるようになります。
問題の全貌を把握できるころには、解決策も発見し、状況を改善することが可能となることでしょう。
一つ問題を解決する度に、一つずつ霊的に成長してゆきます。

一見どんなに素晴らしい行いでも、心がけが悪しきものであれば、霊的に成長することはできません。
その心にあるのは邪な願いを叶えることであり、平安を望んだ結果ではありません。
その行いには必ず矛盾が存在し、気に入らないものに対しては、大変残酷で傲慢です。
そのような心がけで何を行ったところで霊的成長は見込めず、同じ場所に停滞し続けるのです。
このような者たちは、霊的に死した人々といえるでしょう。
自分の心がけが悪しきものであると認識し、改善を図るために行動を起こすまで、霊的な成長は見込めません。
何度でも同じような場所に生まれ、何度でも同じような経験を繰り返す事になるでしょう。
自分自身からは、何があっても逃れられないのです。

物質界では、埋め合わせの法則(因果律)は正常に機能していないように感じられるかもしれません。
「正直者が馬鹿を見る」という言葉をよく耳にしますが、なぜ、その様なことになっているのでしょう。
資金力と権力がものをいう世界というのが、今の物質界の主流といえるでしょう。
あらゆる手段を行使して、奪い合いをしてでも、勝ち残らなければ生きていけないほど、地球環境が過酷であると言えるのかもしれませんが、果たして、生き残る方法は本当にそれだけなのでしょうか。
人間の皆様は、よくよく周囲を観察して、違う道を模索する必要があるように思います。

答えは常に目の前に用意されており、いつでも手にすることができるのに、見ようともしないし、聞こうともしていないようです。
何が本当に自分自身のためになるのかをきちんと把握できずに、徒に争いを起こし、略奪と殺戮を繰り返しているように見えます。
何も、神々が人間に意地悪をして、答えを分かり難くしているわけではありません。
人間自身が安易な方法を好み、手間のかかる方法を試そうとしていないだけなのです。
一部の者たちの利益のために安易な方法を選び、それを邪魔する者を片っ端から排除しているようでは、いくら時間が経っても社会全体が霊的に成長することは難しいでしょう。
結果として、とても過酷で暮らしにくい社会が誕生するというわけです。
いつも何かに怯えて暮らすことになるでしょう。

物質界でも因果律を目に見える形で正常に機能させたければ、人間自身が自分たちで法整備をし、正しく機能できるシステムを構築する必要があるのです。
自分自身が行動を起こさなければ、誰も代わりに行ってくれる存在など無いのだということを、きちんと知っておく必要があります。
神々は、物質界を取り巻く法則を維持管理するための存在であり、人間の都合に合わせて働くロボットではないのです。
人間が自分たちの力で実現する必要のある事柄を、神々に代わりに実現してもらおうと考えるのは誤りなのです。
自分たちの力で、試行錯誤しながら完成を目指す事に意味があることを、よく覚えておきましょう。
それらの作業を行う中で、多くの事柄を学び、神々の境涯へと仲間入りするための基礎知識を身につけることができるのです。

(2014年5月19日)





上記記事は、『銀の紐を越えて』掲載記事【埋め合わせの法則(メッセージ12)】の内容について、霊媒Mの通信精度向上に伴って、再度詳細な説明をお願いしたものです。
通信の送り手が提供する情報は同じであっても、受け手の霊媒の通信精度の違いによって、これほど内容に違いが出るのだという部分を感じて頂ければ、今回の試みに挑戦した目的は果たされていると思います。

また、前回投稿した記事【霊の学舎としての物質界と因果律の作用(前編)[メッセージ修正版05.1]】にてお知らせしておりますように、前回と今回の記事は二部構成になっておりますので、双方の記事を併せてご覧下さい。

今回のテーマ、『埋め合わせの法則』については、物事の全体像を俯瞰できる霊界の住人の視野と、物質的な存在を観察する機能に特化した人間の視野の違いが、端的に表れているのだと思います。
人間が見る限りでは、「世の中に遍く因果律が作用している」とは信じられない場面に出会う場合があります。
例えば、傍から見た限りでは当人に原因があるとは思えなくても、何故か非常に不遇な状態に置かれている人が居ります。
あるいは、傍から見ると極悪極まりないようでも、その報いを受けるでもなく人生を謳歌している様に見える人も居ります。
そうなるには、それなりの原因と経緯があるからなのですが、その原因と経緯の全貌がしばしば人間の視野を越えている場合もあります。
特に、これといった理由も思い当たらないのに、不遇な状態に置かれている場合には、『埋め合わせの法則』 として、今は不遇でも行いに誤りがなければ、いずれ何らかの形で不遇な状態の埋め合わせがされる――と言った文脈で説明されているようです。
しかし、不遇な状態に置かれる時点で、それ以前に自分自身が不遇な状態に追いこまれる原因があったはずですので、その原因を突き止めて改善しない限り、不遇な状態の解消は見込めません。
この『埋め合わせの法則』とは、上記記事にもあるように『因果律』の一形態にすぎないのですが、あえて『因果律』の一形態を切り分けることによって、因果律の理解を恣意的に歪めてしまう可能性を憂慮してしまいました。

また、霊媒から前回投稿した記事【霊の学舎としての物質界と因果律の作用(前編)[メッセージ修正版05.1]】を受け取った時には、テーマである『埋め合わせの法則』との関連性がよく分からなかったのですが、上記記事の最後の段落を見た時に、この記事が二部構成である理由と前編の必要性が理解できました。
私たち人間が暮らす世界(=物質界)は霊の学舎であるから、社会秩序を維持するという形で『因果律』のシミュレーションが出来る様になっているのでしょう。
記事【宇宙の構造と人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】で示されているように、今は人間として肉体に宿っている私たちも、いずれは物質界の秩序を維持する(=物質の因果律を維持する)神々の境涯に至るようですから、その時に備えた練習の機会なのでしょうか。

Silvercord管理人 





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